「センスがいい」という評価の言葉を耳にするたび、私はある種の居心地の悪さを覚える。それは単なる不快感ではない。むしろ、この一見無害に見える称賛の背後に潜む、より深刻な問題構造への直感的な反発なのである。
この言葉が日常的に流通している現実を前にして、私たちは立ち止まって考えなければならない。「センス」とは果たして何なのか、そしてこの語によって何が隠蔽され、何が失われているのかを。
そもそも「センス」という概念の曖昧さは意図的なものではないだろうか。辞書的定義において「物事の微妙な感じや味わいを感じ取る能力」とされるこの語は、その定義自体が既に循環論法の罠に陥っている。感じ取る能力とは何か、微妙とは何を指すのか。私たちは定義されざるものによって定義された概念を、あたかも自明のものとして受け入れているのである。
しかし、実際に「センスがいい」と評価される選択や判断の背後には、必ず具体的で検証可能な根拠が存在する。長年にわたる経験の蓄積、膨大な情報収集と分析、失敗から抽出された教訓、制約条件下での最適化プロセス、そして明確な目標に向けた戦略的思考。これらの複合的な営みを「センス」という単一の語に収斂させることの暴力性を、私たちは見過ごしてはならない。
具体例を挙げよう。あるデザイナーの作品を前にして、私たちが「センスがいい」と評するとき、そこには何が見落とされているのか。
クライアントとの綿密なコミュニケーション、ターゲット層の行動パターンと心理的特性の分析、競合他社の戦略研究、色彩理論とタイポグラフィの原則の適用、媒体特性と技術的制約の理解、限られた予算内での表現手法の最適化、そして数十から数百に及ぶ試作案の作成と検証。これらの地道で体系的な作業プロセスが「センス」という一語によって不可視化される瞬間、私たちは何か重要なものを失っているのではないか。
同様のことは、ファッションにおいても言える。「あの人はセンスがいい」と称される装いの背後には、自己の身体的特徴の客観的把握、TPOに応じた適切性の判断、予算制約下での効果的な組み合わせの探求、流行と普遍性のバランス計算、色彩調和と素材感の理論的理解、そして実際の着用による検証作業が存在する。これらの知的営みを先天的才能として処理することの問題性は明らかであろう。
「センス」という評価が持つ最も深刻な問題は、それが第三者による一方的で無責任な判断であるという点にある。
評価主体の側を検討してみよう。多くの場合、彼らはその分野における専門的知識を欠き、結果のみを観察してプロセスを不問に付し、実際の制作や判断の経験を持たず、失敗のリスクを負うことなく、具体的な制約条件を理解していない。このような立場から発せられる「センス」評価は、その軽薄さにおいて批判されるべきものである。
一方、評価客体である当事者の現実はどうか。彼らは限られた時間とリソースの中で最適解を模索し、失敗した場合の全責任を負い、複数の制約条件を同時に満たすことを要求され、過去の経験と学習の積み重ねに依拠し、継続的な努力と改善を重ねている。この非対称性こそが、「センス」評価の不当性を示している。